「スピリチュアルを学んでいる人は正しい道を選ぶ事ができる」←間違い
私にはとても尊敬している人がいる。
彼女は、独自に美を追求し、有り余るお金を持ち、若くて外見が整っている異性達を連れている。
ブログでは、自分の身体のきわどい写真や、所持しているブランド物の写真などを惜しみなく見せている。
ここまで書けば誰だかすぐわかるかもしれない(笑)
こんな風にいえば、なんとなく悪意を感じるかもしれないけどそうではない。
私は本当に彼女を尊敬している。
表面しか見れない、愛だけが全てだと語っている薄っぺらいスピ人間には、彼女は俗的で、外見やお金などの物質という上辺だけのものにしか興味がないレベルの低い人間と感じると思う。
愛は大切であるのは間違いではない。
彼女達は「本当の愛を知らない」と自分で言っているし、本当の愛を知りたいとも言っている。
「私は彼女と違って本当の愛の為に生きる!愛がこの世で一番大切なのに、そんな愛を知らず、物質的な事に溺れている彼女達はとても魂の意識が低い人間」と、あなたはジャッジするだろうか。
もしそうであれば、少しお話を聞いてほしいと思う。
むやみに結婚という制度で自分を縛り付けない事で、彼女は自由恋愛を楽しんでいる。
一見エゴのようだが、本当の愛がないところに結婚という制度で縛り付ける事は自分の為にならないと、自分中心に考えた行動であっても、結果、相手の為にもなる行動にもつながっている。
彼女が発している言葉はとても深い。
常に自分軸で生きている。
「愛」を得る為に、意中の相手の事ばかりを気にした他人軸で生きる人間と、自分軸で、堂々と自分の信念を貫いて生きる彼女と、どちらが意識が高いだろうか。
この世の全ては愛、愛がこの世で一番尊いものだと言い、本物の愛を探せず、愛欲に溺れた(ように見える)彼女を意識の低い人間だとジャッジして蔑んでいるのに、あなた自身が本当の愛を手にしていないのであれば、あなたと彼女は何が違うのだろうか?
自分に足りない事を理解し、堂々と自分の信念を軸に生きている彼女に対して、下らないと蔑むのなら、蔑む人は一体どれだけ魂意識が高いのだろうか。
愛は、スピリチュアルを語る上でよく出される単語である。
愛は大きく美しいものだと思う。
だからと言って、愛を語れば正義で、物質(俗)的な欲を語れば悪だと言うのは間違い。
愛を求める事が意識の高さにつながるわけではない。
人は学ぶべき事を持って生まれてくる。
その学ぶべき事が愛かもしれないし、許しかもしれないし、お金かもしれない。
他人を受け入れる為にこの人生を選んで生まれてきているのに、スピリチュアリズムに足を突っ込んで愛を語り、自分が持っている価値観で相手を酷評し、相手を受け入れる事から目をそらす事は、決して意識が高いとは言えない。
小学2年生が、一生懸命掛け算の九九を覚えている時に、「計算なんて、計算機使えば簡単に答えが出せるし、わざわざ覚える必要なんてないのにねー(笑)本当に大切なのは道徳なのにw」と、鼻で笑っているニートがいたら、この人に何を感じるだろうか。
自分は求めているものを手にできていないのに、ずれた角度から相手を酷評してジャッジする。
この道徳を愛に変え、計算(九九を覚える事)を俗的な何かに変えれば、愛が正義!と信じているずれたスピリチュアリストのセリフになる。
美を追求し、有り余るお金を持ち、自分の身体や私生活の写真をさらけ出している女性を酷評・蔑んでいる事と、九九を覚えている小学生を鼻で笑うのとは全く同じなのだ。
人はスピリチュアルを意識しなくても、スピリチュアルな生き方をできる。
全てのスピリチュアリストが正しい事を伝えているわけではないので、その人たちから間違った思想を植え付けられてしまう事で、逆に魂の望む方向からずれてしまう事もある。
スピリチュアルな事に傾倒し、学ぶ事だけがスピリチュアルな生き方ではないし、スピリチュアルな生き方を求める事だけが崇高な人生ではないのだ。
物事は、中途半端に知る事で余計にわからなくなる事がある。
それなら、思い切ってスピリチュアルな教えや講座から一歩引いて、自分自身が本当に望む事を自分自身に問う事が一番スピリチュアルな生き方に近づけるのではないだろうか。
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